【エッセイ】会話するということ


▲Philipe Hone 19世紀のNY市長。日テレ「ラジかるッ」用に作成したイラスト。(本文に関係無し)


人と会話をしていると、たまに相手が発した一言二言に、

「あれ、今この人僕のこと馬鹿にしたのかな?」

と漠然と感じることがあり、特に気にせず笑って過ごしていると、やっぱり後からさっきの一言がボディーブローのようにじわじわ腹に聞いてきて、ちょっと確認してやろうかという気になるものの、話題も変わって聞くに聞けず、やっぱりヘラヘラ笑って相手のペースに合わせている、ということが良くある気がする。

家に帰ったあと、何度も何度も脳内でその一言がリフレインし、ああ、やっぱり僕はあの人にコケにされたのだと確信めいたものを感じ、半ば憤り、半ば情けなく、ああいってかわせばよかった、とか、こういって反論すればよかった、などと後の祭りのように考えて、一人くやし涙を我慢する。

そうして考えるのは、前にもこんなことがあったな・・・という反省すべき羞恥の歴史であり、あの時もこう言い返してやればよかったとか、これは言うべきじゃなかったとか、伝え方が完全に間違っていたとか、こういえばこう誤解されるということを何故口を開く前に認識できなかったのだろうとか、逆に相手の言葉を完全に誤解していて素っ頓狂な返答をしてしまい後で赤面したことや、どうしてこの言葉が相手を傷つけるとわからなかったのだろうといった封印しておきたい過去の記憶が、とりとめもなくどんどん蘇ってきては、うわあ!と叫んで走り出したくなる気持ちをぐっと抑えるのである。

無限とも思える自責の念が心に蓄積していくと、仕舞いには、あんな言い方しなくたっていいじゃないかあの野郎とか、人にこんなこと言えるのならあの人自分はよほどの聖人君子だと思ってやがるんだろうな・・・などなど、知らずしらずに攻撃対象が他者へと移動しているのに気づかされる。だが、口汚く人を誹るその自分の姿は、きっと第三者から見て醜いことだろうと考えると、結局行き着くところは自分の器の小ささであり、自分の無能さに他ならず、結局自己嫌悪に枕を濡らす羽目になるのだ。

どうして過去から反省し、それを教訓とできないのか?

いや、正確には少しはできているのかもしれない。以前の僕ならばこういう時にこういう言い方はできなかった、ああ言って相手を怒らせていたかもしれない、などと思うことも、無いことも無い。
だた、効率が悪すぎるのだ。10失敗して1学ぶ、ならまだしも、1000失敗してやっと学び得た1つもどこか心許なく、自信が無いといった有様では、今後も同じことを繰り返してしまうに違いない。

一切馬鹿にされたくはない、と思っているわけではない。僕という人間はあまり利口でないのは百も承知しているのだから、人から馬鹿にされることもあるだろう。けれども、そのときに後々悔やまれるような心の対応をしたくない。それは、気の利いた反撃を試みて、嫌味たっぷりに相手を言い負かしたいだとか、その結果相手と喧嘩になり、行く行く疎遠になっても、それでも我を通して言いたいことは言うのだ、とかそういうことでは無く、もっと広く受け入れるというか、微笑もて正義を成す、というか、要するに、「そんなこと気にしない」と思える人間に、僕になりたい。

そんなことをぐるぐる無限ループのように考えて、仕事中、食事中、排便中、テレビ視聴中、寝る間際、飽きもせずにぐるぐる同じことばかりを考えて、けれども記憶力が悪いからか、そもそも頭脳の出来が悪いからか、次に人に会うときには雲散霧消。あれほど考えた反省教訓も一切消え失せ、また同じ歴史を繰り返す・・・。



・・・以上が、僕の生活における「会話する」ということらしい。

含羞の歴史をもうずいぶんと重ねてきたのだから、そろそろ少しはマシな人間になりたい。そう思って今思うことを書き残しておこうと思う。

少なくとも、10、いや5年後には、この文章を鼻で笑い飛ばしたい。



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榎本よしたか

Author:榎本よしたか
フリーランスのイラストレーター兼法廷画家です。書籍やテレビ番組用に絵を描いています。アコースティックギターと歴史雑学が好きです。

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